2017年2月25日土曜日

受け継ぐ

我が家のおひなさまは、明治45年作の105歳(?)
装束は少し色あせ、三人官女のお道具は二つしかないし、ぼんぼりもひしゃげているけど何とも言えぬ品のいいお顔をしている。

20数年前に隣に3年ほど住んでいた仏人の若い御夫婦がいた。
夫人のイザベラさんがこの古いおひな様を大変気に入り、ステキだ、ステキだとほめて下さって以来、『大切にしなければ』と私も気を入れて保管してきたつもりだが、仲々難しい。

箱に書いてある作り手の名前を、数年前に新聞広告で見出した。
京のひな人形師数人の中に同じ姓の作り手を発見し電話を架けてみたら、今はその人から三代目だとのこと。

伝統を受け継ぎ、業を伝えて行くことの素晴らしさを改めて感じた。

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管理人です
投稿ありがとうございました。

わが家のひな人形は、義母が娘のために買ってくれたものです。
木目込みのひな人形です(ぼけぼけの写真で人形の顔が写ってませんがこんなものです)

今では、押し入れの奥にしまい込まれたままです。ちょっとかわいそうです。
写真を見ると、母親の愛情、やさしさがよみがえってきます。

イザベラさんも、人形のお顔の奥に、作者の思いや、投稿者のご家庭の睦まじさを感じ取ったからこそ「ステキだ」という言葉になったのでしょうね、きっと。

受け継ぐことは、人形一つ取って見ても簡単ではありませんね。
キリストの信仰も二千年この方、キリストの苦難を受け継いだ幾多の信仰者の忍耐の歴史があればこそ、今に至るまでその福音の恩恵にあずからせていただいているのだ。
このことを感謝しなければとつくづく思います。

今度は私自身がその役を担う必要があるのだ。
キリストは見えない神のかたちとしてこの世に来て下さった。そして、神とはどういうお方かを、そのみことばによって、その行いによって、その奇跡の御業によって、十字架の死に至るまで完全に現して下さった。

主は弟子のピリポに「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と語られたが、天に昇られ神の右に座しておられ、今は見ることの出来ないキリストを伝えると言うことは、私自身が「私を見た者はキリストを見たのだ」という姿に変えられて行く必要があるのだ。

信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。(ローマ人への手紙  10章14節)

とパウロは言っていますが、キリスト者一人一人が主と同じかたちに姿を変容させられ、キリストをあらわす以外に福音が伝わっていくことはないのだとつくづく思う。

今の私は、キリストの似姿など何一つ持ち合わせていないのだということを痛いほど知っている。
悲しい現実である。だが希望はある。私自身がそれを成し遂げるのではなく主御自身がすでに完成して下さったからである。それに向かってこの年・この月・この日・この時をみことばを信じて忍耐するのみである。

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(ピリピ人への手紙 3章13節~14節)

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