2017年2月24日金曜日

神に呼ばわる

先日私あてに突然のメールが届いた。ある方の緊急入院のメールであった。
『下血が続き受診した結果、緊急入院、即検査となった』旨の知らせであった。

まさかのメールであったので気が動転してしまった。
キリストの福音の前進にとっても、私個人の霊的交わりにとっても欠くことのできない大切な働き人だからである。

私は主に呼ばわった
すると主は奇跡をもって私に答えて下さった。

現時点の検査の結果が、一番心配していた病名ではなかったからである。

人は言うだろう。「そんなの初めから違っていただけなのだ。」

モーセがエジプト王のファラオに、イスラエルの民をエジプトから去らせるよう、奇跡をもって要求した時、ファラオお抱えの魔術師たちも、奇跡と同じ結果を生じさせる魔術をもって対抗したことが、旧約聖書の『出エジプト記』に出てくる。

たとえそれが神からの奇跡であったとしても、人間による魔術・奇術と見た目の結果は変わらないのである。
どこが違うのか。目に見えるその奇跡を体験する当事者の心が何によって支配されているのかによって、奇跡にもなり、魔術にもなり、取るに足らない当然の帰結となって見る者の目に映るのである。

私たちが物事の現象を捉える時、神の御霊によって物事を見る時、一つ一つの出来事がどれほど奇跡的なことなのかが見えて来るのだと思う。

この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。(第一コリント 2章13節)

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。(ヨハネの福音書 16章13節)

このことを奇跡として見させて下さる私たちの父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊の神を、喜びと感謝をもって誉め讃えます。

まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。(申命記 4章7節)

私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。
夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。 すると、主は私の声を聞いてくださる。(詩篇 55篇16節~17節)

それで、私が呼ばわる日に、私の敵は退きます。神が私の味方であることを私は知っています。
神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます。(詩篇 56篇9節~10節)

苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた。(詩篇 120篇1節)

主よ。私はあなたを呼び求めます。私のところに急いでください。私があなたに呼ばわるとき、私の声を聞いてください。
私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として 立ち上りますように。(詩篇 141篇1節~2節)

あなたは私の声を聞かれました。救いを求める私の叫びに耳を閉じないでください。
私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、『恐れるな』と仰せられました。
主よ。あなたは、私のたましいの訴えを弁護して、私のいのちを贖ってくださいました。(哀歌 3章56節~58節)

私は目を上げ 山を見上げる
私の助けは どこからくるのか
山よりはるかに 偉大な神の
奇跡を期待し 賛美をささげる
私は信じる 奇跡は いまでもあると
私は信じる 主イエスを 奇跡の神を
賛美の中に おられるお方に
栄光と誉れ 賛美ささげる

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