2017年2月22日水曜日

すでにあったこと

管理人です
主にのみ信頼して生きる人生を歩ませていただいていることを日々感謝しています。

みなさんは旧約聖書の「伝道者の書」を読まれたことがおありでしょうか。
キリストの信仰者であれば当然、目にしたことがあると思います。

立花的ルポルタージュ風に言えば「世・その金脈と人脈」というところでしょうかね。

伝道者は言います。

「今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。」

私たちは自分にとって都合の悪いことが起きるとすぐに言います。
「何で私だけが」「何でこんな時に」「あの人だったら納得がいくのに」「こんなに真面目に生きてきたのに」

しかしである。
どんなに神の前に真実に生きていても、反対に悪の限りを尽くしていても、金脈と人脈があろうがなかろうが、知恵や知識があろうがなかろうが、すべてのことは誰にでも、ある日突然に起こり、またこれからも起こり続け、反対にそれを逃れ続ける者もいるのである。
この世とは始めから終わりまで、そのように支配されている所なのだと理解する必要があるのだ。

結局、真剣に生きた者も、いい加減に生きた者も、誠実に生きた者も、悪の限りを尽くした者も行き着く所は同じ。同じ結末がすべての人に来る。
遅かれ早かれ、100パーセントの確率で、ブラックホールのごとき空虚が支配する無の世界へと引きずり込まれて行く。まさに「空の空」の人生なのだ。

この世だけに目を奪われて生きるのならば、その事は100パーセント正しい「世の法則」である。
たぶん、死を間際にして「私の人生は一体何だったのだろうか?何の意味があったのだろうか?」という疑問の言葉しか出て来ないのだと思う。


あなたの置かれた境遇の範囲で、若いうちから楽しめばいいじゃないか。あなたの心のおもむくまま自分のしたいことをすればいいじゃないか。
いま与えられているものを十分に享受して楽しんで、しっかりと人生を歩め。
『おもろうて、やがて悲しき』の人生である。

だが伝道者は言う。
これらすべてのことにおいて、最終的にあなたは神の裁きを受けることを知っていなければならない。
裁きといって悪ければ、最終的に『自身が行ってきたことに対する結果責任を問われる』ということだ。

この世の見える部分は見えない部分から成り立っていることを、人間は絶対に知らなければならないと。

世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。(ローマ人への手紙 1章20節)

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです(コリント人への手紙第二 4章18節)

神の公平は絶対に存在するのだ。

だからあなたは、若いうちから、元気なうちから。「私の人生は私のものだ」と豪語しているうちに、あなたを創造した方を知る必要があるのだ。

「何で私だけが」「何でこんな時に」「あの人だったら納得がいくのに」「こんなに真面目に生きてきたのに」と言う日が来ないうちに。

また、「何の喜びもない。私の人生は一体何だったのだろうか?何の意味があったのだろうか?」という年月が近づく前に。

人間は、「聖書」という神のことばによって、もうすべてが聞かされているのだ。
これが人間にとって最終的な回答となると伝道者は言う。これが人間にとってすべてであると。

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