2017年1月4日水曜日

いちじくの木の下



















正月の三が日も過ぎ去り、早くも4日。浮かれて生活していたら今年もあっという間にクリスマスを迎えそうで、なんだか焦りも出てくる4日目です。3日で神殿を建て直すことの出来る主ですから、どうか私の思いも建て直して下さいますように。

管理人の昨年は、信仰生活を始めてから初めて、聖書全巻を読み下す事が出来なかった年でした。そして思いました。信仰とは言い換えれば、御言葉がどれだけ自分の血となり肉となっているかと言う事とイコールなのではと。

どおりで、自分の思いばかりが先行した年だったなあと改めて思い出されます。使徒行伝の17章には、パウロ2回目のコリントに至る宣教旅行の際に、ベレアに立ち寄ったときのことが書かれている。ベレアは、ギリシアの北半分、当時のマケドニア州の帝都テサロニケから西へ約80キロほど入り込んだ内陸部にある町である。この町で信仰に入ったベレア人「ソパテロ」がパウロの第3回目、最後の宣教の旅に同行した事が使徒行伝20章4節に記載されている。たぶんこの記事の時に信仰に入ったのではないかと思われる。

聖書に親しむ事の重要さが伝わる記事である。御言葉の中に住まう聖霊御自身が、聖書の御言葉によってその御言葉の中にある真理を教えて下さる。
『みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。』(詩篇119篇130節)
私の短い信仰生活の中でも、そのような経験が幾度もあった。そしてその事によって、今まで何とか信仰が護られてきた。まさしく自分で立っていたのではなく、主御自身が聖霊を通して語って下さるみことばによって、いつまでも朽ちることのない神のいのちを、こんな枯れ枝にまで流し出して下さったことの結果なのだ。これを奇跡と云うのだろう。

ヨハネ書の1章の後半に、「ナタナエル」(バルトロマイと同一人物か?)がイエスによって使徒として召された時の事が書かれている。この時イエスはナタナエルを指して『「この人物は、ヤコブ(イスラエル)と違って、欺き(狡猾)抜きの真のイスラエルだ」と、たぶん冗談交じりで語ったと思う。』と聖書ギリシア語学者の故織田昭さんも語っているが、このナタナエルにイエスは

と語った(ヨハネ1・48)が、この「いちじくの木」とは当時、熱心な聖書研究、神を求める知識の吸収を表現する慣用句として用いられていたのです。主イエスは、みことばの中におられる神を熱く求めたナタナエルの心の内に真のイスラエル・真のキリスト者の原型を見いだして下さったように、私たちも、主イエスから「欺き抜きのイスラエル」と呼ばれるように今年も熱心に、熱く、深く、高く、広く、長く、みことばを追い求めようではありませんか。
西国街道にて(いちじくの木の下)

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