2017年1月25日水曜日

子供のように

日曜日の礼拝メッセージの中で『人間の頑(かたく)なさ』について語られたが、信仰者といえども、人間というものは、すべての面において、自分の立ち位置からしか物事を見ようとしない生き物のようである。

私たちは、神の御言葉がなければ、一介の野獣のごとき存在でしかないのだ。
物事を真剣に取り組めば取り組むほど、

「私は間違っていない」
「私の方が正しい」
「相手が変わる必要があり、自分は変わる必要はない」
「だから、相手の考え・行動は絶対に認めない」

との思いが心を支配するようになる。パウロはそれを『むさぼりの罪』だと言う。

このみことばは、そんな情けない私の信仰が、神の前でどのような存在であるのかを自覚させてくれるみことばなのです。

キーワードは4節の『自分を低くして』です。

私たちが『子供のようになる』といえば、どのようになることを皆さんは想像するでしょうか?

私も以前はこのように考えていました。

「子供は疑うことを知らない純真無垢な存在、心が柔軟で、言われたことを素直にストレートに受け入れる」

だから、自分の思いを捨て去って、子供のように神の言葉を何も考えずに、そのまま素直にストレートに受け入れ行動することこそが神の御心だ。

じゃあ、5節の『このような一人の子供を受け入れる』とは、そのような『力が弱く、純粋無垢で素直な人』を受け入れよ、ということで終わってしまいますよね。

この当時の『子供』のイメージとは、そのようなイメージではなく

何の能力も知識もなく、ただただみっともない、一人前の社会人として評価に値しない弱者・無資格者

というのがここに言う『子供』のイメージなのです。

イエスは、「神の前に、お前はこのような存在なのではないのか。心も貧しく、みじめでみっともない何ほどの自己評価もできない程度の人間なのではないのか。そのことに気づけ」と言っているのだと思います。だから、4節で『自分を低くして』と言っているのでしょう。

イエス様の御心の中には、もはや人の功績や、資格、能力・徳の大小といった人間的な評価は全く存在せず、天におられる父の目に映る一人一人の人間の価値だけがあったのだと思います。天の御国は人が考えるような『大人』などは必要としていないのです。

さあ、今こそ、発想を転換して、神に向きを変えなさい

なぜなら、救いは人間の大・小(グレート・スモール)で決まるのではなく、主の十字架の御業だけが成し得る神の御業だからです。

主イエスよ、あなたの御前で私は何の資格もなく、評価にも値しない、つまらない塵のような存在です。私自身の心の目の中にある、高慢・傲慢・プライド・自己義認という丸太(マタイ7・3~5)に気づかせてくださり感謝します。だから、今すぐそれを取り除いて、あなたの御心がはっきり見えるように、天の父が支配する御国の世界がどのようなものか、はっきり見えるように導いてください。またその丸太を取り去る力、取り去る勇気を与えてください。
棄てられて

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